昭和五十年四月十二日 朝の御理解
御理解第二十五節
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかん。一心と定めい。
信心は大きな信心と、大きな教団とかまたは宗教、と云うような意味ではないですね。例えば三大宗教と云われる、キリスト教とか仏教とかと、いったような世界的に大きな、信者を擁した宗教があります。大きな信心とは、そういう事ではない。
私は、その、大きな信心がよいと云われる。大きな信心をさせて頂くなら、大きなおかげの頂けれる。大きなおかげの頂けれる信心でなからねばいけないと。所詮、生きた働きを持った宗教、しかも、大きな信心をすれば大きなおかげが頂かれるという信心。それにはね、迷い信心ではいかぬ、一心と定めい、と仰せられる。
だから、一心と定めいと云う事は、私は金光様の御信心でおかげを頂く。金光様、一心と云う意味もありましょう。けど、私は、今日は少し角度を変えて聞いて頂きたいと思う。お互い、大きなおかげを受けたいと思わぬ者はありません。大きなおかげが受けたい、それには、一心と定めなければならん。勿論、大きな信心が出来たら、大きなおかげが受けられる。
二代金光様のみ教えにもありますように、『大海のような信心をせよ』と、仰せられる。大海の信心、大海には鯨だ住もうかと。竹の筒に、水が溜った様な信心ではボウフリ位のものしか湧かん、と仰せられる。
だから、結局、大きな信心とは、大海の様な信心ということになりましょうけれども、その内容です。どの様な信心をさせて頂いたら、また、どの様に一心と定めなければならないかと云うことです。
私は、今朝方からお夢を頂いた。それは、色々込み入った。私は、丁度、何と申しましょうか、大きな生活必需品を売るデパートの様なお店を経営しているのです。丁度、夕方らしく、もう兎に角千客万来、大変な忙しさなんです。それを、私は、采配を振っている様なお夢でした。
ところが、そこにです、小僧さんがやって来て、先生、どこどこ教会の先生方が二人で、先生にお話を頂きたいと云うて見えとります、と云うのです。けど、丁度夕方、忙しい時で、手が離されんから一寸待っとって呉れと云うた。暫く致しました。私が心の中で、どういう話を聞きに来たのか知らんけれども、今、ここの店がこのように繁栄しておる、繁盛している。この繁盛が、この元がどこにあるかと云うことが、一遍見たら良いのに、聞いたとすれば良いのに。それに、その、勝手の方から見えとるごたる。そこで待っておられる訳なんです。
そのお店と勝手との間には、運動場の様な大きな広い中庭があるのです。だから、その中庭をツーット行けば近いんですけど、その中庭と云うのが、もうそれこそ、もう見事な肥えた土とでも申しましょうかね、もうフワフワするような土。何を蒔いても生える。だから、何を植えても育つだろうというような庭なんです。それが広いんです。だあから、勝手の方に行く為には、こう外から廻って、家の方へ入っていった。
私の話を聞きたいという二人の先生が、本当に私の話を聞きたいならば、そのおかげを頂いとる事実を一遍検分《見聞》してからよいのにと思いながら、手が話されんから、忙しい中に、それから、その一切りつきましたから、私、廻って勝手の方に廻りましたら、何処どこ教会の〇〇先生が二人はから見えるごとなっとる。そこで待たせとる間に、何かお酒を出さして頂いとる様です。少し、酩酊しておる様です。
先生、今日は合楽で言われる、楠木太りの信心の話しを、いっちょ聞きにきたと言われる。
ああ、そうですか。そして、私がすぐ心の中で思うた事がです。楠木太りの信心を頂きにきた事は、そして、少しドロッと酩酊してある先生が言うことには、もう、此処に来ると只のお酒がですね。此処んとは只のお酒じゃからと、平気で一杯機嫌で言うとられるのです。
そして、私がね、心の中で思いよる事がね。楠木太りのおかげを頂かねばね、只酒が楽しいごとあっちゃ、おかげは頂かれませんよと、言おうと思うとるけれども、これはね、そこに只酒を飲みよんなさるとじゃから、言えん。
それで、私はおかげの泉と、天地日月の心と、私の話しを収録した御本を持って行って、これをお読みなさいと、私が云いよるところです。
そして、おかげの泉を見て、おかげ、おかげと言う信心じゃつまらん、というのです。なら、この天地日月の方の御本を読みなさい。いえ、今日は、どうでん楠木太りの信心という事を、此処の先生が、いつも云いよんなさるそうですが。その楠木太りになる、そのおかげの頂けれる、一つ、話しを聞かせて呉れという様な、お夢でした。
誰でも楠木太りと云えば、ああ云う木の中でも楠木はもう、それこそ、ああいう大きくなれる信心です。
これはね、楠木太りと云うけれども、ただ、繁盛すると云うだけではいかんのです。その大きなおかげを頂いた為に、却っておかげを落とす事な事ではいかん。大きな信心が良いと云う事は、大きなおかげが受けられると云う事ですけれども、それには、楠木太りという事は、いつでしたか御理解に頂きました。楠木正成でなければいけないという事、正しく繁ると云う事。
それは、信心がなかっても繁盛する人もあります。沢山、儲け出す人もあります。けれども、私は危ない、正しく繁っとらん。さあ儲かる事なら、人の茶碗を叩き落としてからでも、というような根性で大きくなったんでは、大きくなってもそれは本当の大きくなったのにはなりません。問題は、正しく信心が成長してゆかなければならない。
私は、いつも申します様に、私の話しには超の字が付く。だから、超の字が付く様なおかげをね。例えば、大きい上に、また良い時には超の字を使うでしょう。だから、私が教えるところ、非常に、ある場合には非常識に聞こえる事があるけれども、それは超常識だと。
道徳的な事ではおかげは受けられん、超道徳でなければいけない、という様に超の字を使う。けれども、私は思うのです。私は、合楽の傾向と申しますか、そういう傾向を持っておると云う事は、私の信心を一足飛びに頂いてですね。そりゃ、そげな事は問題じゃないがと、所詮、超常識でゆく訳です。超道徳でゆく訳です。一遍に、ね。それではいけない。
だから、結局は、私は常識的な、いわば在り方というものを身に着ける。道徳的なものを身に着ける。その先に超道徳であり、超常識があるのです。
特に、私の《 》達の場合なんかは、結局私がおかげを受けておる、そこだけを見る。親先生は、そういう時にこういう行き方をなさる、と云うて、超のところだけを覚えて所詮超常識的な、道徳的なと云うところをだれが聞いても、誰が見てもです。成程と合点の行く様なところをふんまえて超道徳的にならなければいけない。
例えて申しますと、なら、親孝行でもそうです。私が、まだ難儀苦労をしとりました時分ですけど、或る処で朝食をはこばれた。そこに生卵が一個出ました。そこで、私はお汁とお漬け物だけでお食事を済ましました。その生卵を一つ持って帰った。勿論、その時分難儀困窮しとる時ですから、親達に卵の一つでも、わざわざ買って与える力がない時ですから、お汁の中に入れて、じっちゃまとばばしゃまに上げて呉れと云うて渡しました。
そしたら、家内がね、その卵を握ってね、(親先生、シンミリと涙声に、声を詰まらせて)ツーッと裏さへ行ったです。後で聞かせて頂いたら、親と云うものはこんなに大事にせんならんもんだろうかと思うた、と云うのです。もう私はね、この親達に、例えば、喜んでもらわなければ、私は何の為に北支三界までも出て、そして、一旗揚げて、この親に《 》孝行したい、喜んで貰いたいの一念で外地に行った。
それが、愈々繁盛かに見えた。もう愈々敗戦であり、終戦であり、引揚げである。もう目も当てられない。両親がまた《 》うしておった。どうかして、親に孝行したいという一念が、私の信心の一番の始まりです。だから、親が死んだからその翌日、また元の貧乏に戻っても良いと、私は思った位でした。
そういう一つの熱願というものを持っておりましたから、なら、その時分の私の親孝行というものは、誰が見ても、ああ大坪さんは親孝行な人じゃ。家内が見てもです、親というものはこんなにまで大事にしなければならんもんだろうか、というものを与える程しのものを、いつも心の中に持っておったと言う事です。
これは、私と親教会の場合だってそうです。なら、お道の信者の手本の様に云われました、当時、もう、お説教の材料には必ず私の話しが出ました、と云う様にです。信者としての信心を、本当に身に付けさせて頂いた。
段々、分からせて頂くに従ってです。その、親ともです、親に不幸してでも神様へ孝行する。そして、その度に親に孝行さして貰うという信心にならして貰った時には、誰が見ても非常識であった。不道徳であった。
親先生が何と云われても、私が云う事を聞かなかった。肉親の親が頼む様に云うても、兎に角神様の方を中心にしとりますから、親の云う事も聞かなかった。そして、なら、現在では、私が手を下して親孝行をするのじゃない。私が我力で親孝行を尽くすのじゃない。もうそれこそ、今、私が親教会に尽くしておる事でも、皆さんが御承知の通りに、それこそ超の付く様なおかげを頂いているでしょうが。だから、一応通る処を通らずしてしてです。只、常識の超道徳と云うたって始まらないです。それは、人に非難を買うばっかりなんです。
親孝行だって同じ事です。なら、現在、私が、さあばばしゃま、私が足を揉んでやろう肩を揉んでやろうと一遍だって云うた事はないけれどもです。神様が、おかげを下さる、それがいうなら、此処のばばしゃまこそ、本当の極楽じゃろうと云うて下さる程しのおかげを私は《 》づから、良い着物買って上げるは、お小遣いを上げるの、撫でたり摩ったりしてあげる事は全然、云うならば、まあ、ちょっと云うと、親先生は冷たい方だと云う事になりましょうけれども、親が云うならば、いつも喜んで呉れるというような意味なんですね。超常識、超道徳と云う、そこを辿らずしてね、おかげの頂ける筈がない。そして、超が付くという、愈々大きな信心に入って行くんです。
天下国家の事を祈るとか、頼むとかいうけれども、成程、それは大きな信心の様ですけれども、それには勿論大きなおかげが伴わなければおかしいのです。
金光様の御信心は、もう絶対のものですから、おかげは、赤の信心をすれば赤のおかげが受けられる。深い信心をすりゃ、おかげが深いものになって来る。それにはね、一心と定めいと云うておられるところなのです。
私は、夢の中に二人の若い先生方がね、楠木太りのおかげを頂きたい、その話を聞きたいと云う。それで、まず私が、只酒を、酩酊しているその先生方に云うのはね、只酒だから、いくら飲んだっちゃ良いという心をまず取らなければおかげになりませんよと。
そして、私が中庭がね、もうそれこそ肥えた土というか、何でんかんでん、いつ、どういう種を蒔いても良いように、何を植えても良いように、ちゃんと地ごしらえが出来ておる。
お互いの心がです、、いつも雑草が取り除かれとかなければならない。いつも、肥やしが利いとらなけらばならない。
次にね、こういう事を頂いた。例えば、どんなに、いうなら悲しい事が起こっても、どんなに有頂天なるほどの、まあ、喜ばしい事が起こってもです。その喜ばしい事が、悲しい事が、一切が根肥やしになるような行き方を本気で身に着けておかなければいけないと云う事です。
お夢のなかで、ある方が亡くなっとられる。それに麻生隆司さんが奇麗な花輪の前に使ったのがあるわけです。だからね、わざわざ買わんで、これを持って行けと、私が云いよるとです、麻生さんに。
これは、まあ云うなら、そのことは汚い話なんです。もう、一遍、告別式か、何かで使った花が、まだ新しいから、只、名前だけ替えてから、持って行けと云う訳です。
そういう意味ではなくて、それは死ぬとか、生きるとか云う、そういう悲しい事に直面してもです、一切が生かされているという意味だと、私は感じました。
生かす事の出来れる。悲しい事に出会っても、例えば、喜ばしい事に出会ってもです、それによって有頂天になる事ではなく。どんなに悲しい事に直面してもです、それを生かして、愈々、自分の心を肥やして行く。根肥やしをして行く生き方を身に着けなければならないと云う事です。いうならば、降っても照っても、ということなんです。
昨日、そこの久保山さんが、ああして毎朝、親子でお参りになります。久保山チヨカさんの方です。娘さんが、アサ子さんと申します。
昨日、一昨日、ああいうお湿りの中に田園にでておられた。もうとにかく、お湿りの中に濡れながら、田園に出て、下の大地を見て感激する。上を向いてお湿りを膚に感じながら、天地の御恵を頂き乍感動一杯で、御用さして頂いた。
普通なら、アサ子さん早よう帰って、風邪ひくばの、こげん濡れしぼって、早よう帰って、それが有り難うして、有り難うして、神恩に、いわば感動しておられる。降る雨にまたは立たせて頂いとる。大地に、もう兎に角有難い。
仕事を一通り終えられて、それから下に通るように濡れとりましたから、早速、風呂を沸かさして貰うて、風呂に入って娘と二人で話しました。
朝子さん、この村にも、こんなに沢山お家があって、沢山な物持ちもありゃ、お金持ちもありゃ、また立派なお家に住んどられる方もあるけれども、私どん位幸せなものはあるだろうかと。親子で感動し合うた、とこう云うとられます。素晴らしいですよね。
信心生活とは、私はそういう日々を過ごさして頂く事だと思うです。
雨に濡れても風邪を引かん、ただ有難いばっかりで、丁度、そこへ、お父さんが郵便局に勤めとられます。もう、今年は定年だそうです。一寸、一杯機嫌で帰って見えた。そして、それこそ、親子がです、もうそれこそ村内で、家位幸せな生活をしておるところがあるだろうかと思う位、外にあるまいと話さして貰いよるところに、お父さんが帰って見えた。
それでお父さんが云われること、もうこれは、俺も定年になって、もうこれは、余り長生きしてはいかんばいと、余り長生きしよると子供どんから嫌われると云われた、と云うのです。それで、こちらは有り難うして堪えん時ですからね。お父さん、例えばね、あの去年、姑お母さんが亡くなられて、もう随分お年で亡くなられまして、あなたのお母さんが、ああいうお年になられた時にです。もう、婆さんは早う死ねばよかがと思うた事がありますか、と云うたと。
いや、そげな事は思わんよ、一年でん長生きして貰わにゃ。その通りですよ、家の子供達が皆です、信心頂いておかげ頂いとりますから、お父さんが早死にすりゃよかがと絶対思やしませんよ、と。そげな御無礼な事は思いなさらんごとせにゃいけませんよ、と云うたら、ほんにお前は、中々良か事ば信心するごとなって云うごとなったね、と云うて、云う様な事でございました、と云うお届けが、昨日ございました。
それには自分自身がです、そのお年を取られた姑親に、いうなら尽くせるだけの親孝行させて頂いとった。だから、又、子供達が親孝行する《 》確信しとられる。だけでなく、最近信心される様になってです。天地の大恩が分からして貰い、畠に出ておっても、降っても照っても有難いと云うものが身に付いてきた。とても、いつまでも生きとったら若い者に嫌われるというような、お粗末御無礼な考え方は起こそうにも起こされん程しのおかげを受けておられる。
私は信心生活のね、実際のおかげと云うものは、それだと思うです。いうなら、降っても有難いなら、照っても有難いのである。
それは、人間の一番不幸に直面してもです、それを只では済まさん。それは心を広くする。心を、いうなら豊かにする、根肥やしにさせて頂く。どんなに有頂天になるような事があっても、それに調子に乗り過ぎる事のない行き方を身に着けて行く。所詮、天地日月の心の御本を読んで御覧なさい。いや、おかげば頂く話てんなんてんな、まあ聞かんでんよか。信心が頂きたい、しかも、それは楠木太りの出来るおかげの頂ける信心が頂きたい。そんなら、これを読まにゃいけませんよ。愈々、天地日月の心になる事。天は広い、しかも、与えて与えて止まない無条件の心。
大地の心、深い、広い、そしてです、どういう、例えば事があっても、それを黙って受けると云う信心。日月の心、いうなら、実意丁寧神信心である。
正確無比、私は楠木正成という、正しく繁ると云う事は、そういう行き方を身に着ける事だと。そういう生き方を身に着けさせて頂いて、繁盛していく繁盛ならばです、広がった上に広がり、大きくなった上に大きくなって行くところのおかげが受けられるのであり、約束されると思います。
私が、こうやって段々おかげを頂いて、まだまだこんな事じゃない、限りがない。事に大きくなって行こうという精進をしておる限りです、合楽教会は限りなく大きくなって行くでしょう。
同時にです、只酒が嬉しい様な汚い心からね、脱皮しなければいけない。いうなら、限りなく美しくなる事に精進させて頂かねばいけない。そして、天地日月の心が自分の心の中におかげを頂いて、日々の信心生活の中に、それこそ降っても照っても、上を向いても有難い、下をむいても有難い。
それはもう、身はもう膚に通る程しに、例えば濡れしぼったれになっておっても、ただ有難いものが心の中に頂ける。これほど、たくさん村中に、お金持ちも、物持ちもあるけれども、大きな家に住んどられる方もあるけれども、私どん位、幸せな家はまたとなかろうと思うのや、と云うて親子が話し合える心の状態。そういう心の状態が、いわば基礎になるおかげ。
私は、大きな信心とは、今日はそういう風に頂いて貰いたい。大きな信心には、大きなおかげが絶対伴う。一心と定めるということは、もうこの生き方で行くぞということなんです。この生き方というのは、いうなら天地日月の心で行くぞとか、どんな悲しい事があっても、どんな苦しい事があっても、どんな喜ばしい事があっても、それを一切自分の根肥やしにして行く事に、私は一心と定めなければいけない。
一心と定めるという事を、今日はそのような風に聞いて頂いた。同時に、私は超が付くようなおかげを頂いて貰いたい。ためには、私共が超常識、超道徳を身に着けて行かねばならない。
そのためには、まず、私共が道徳的であらねばならない。まずは、常識的でなからねばならない。金光様の信心をしよって、まあ、あれどんがいう事する事。それはね、私の話を聞いて下さってです。その、超のつく様なおかげの頂けれる信心、例えていうならば、別にです、親にそれこそ撫でたり摩ったりするような親孝行は出来ていないけれども、させて頂くという親孝行、限りがない。
そのまず、前提としてはです、一つの卵でもです。それこそ家内が、親というものはこのようにも大事ものとして感動したという様なです。そこを通っての私は超親孝行の出来るようなおかげを頂く。ここを通らずして超親孝行をさして貰う。ここを通らずして、なら、親先生が云われる様な大きなおかげを頂こうなんて、そりゃ虫が良過ぎると思う。
それこそ、竹の筒にはボウフラしか湧かん。大海には鯨が住む。それこそ鯨の様なおかげの頂けれる為には、まず海の様に深い、広い信心をまずは身に着けさせて頂く事を先決とする。もう、ここに信心は極った。この一心を立てさせて頂くところから、私は、今日は一心と定めいと云う事は、そういう風に心を定めて、本当の信心生活を身に着けて行こうと云う事だと思う。
只、おかげの世界だけを、合楽の先生が楠木太りと仰せられる。為には、まず、正繁のところがいる。正しく繁って行くものでなければ、本当の楠木太りとは云われない。
正繁ではない、それこそです、自分が大きくなるためなら、人の茶碗を叩き落としてでもという生き方からでは、生れてくる大きなおかげでは、それは脆い。それは、一時は成金になるかも知れん。それが、一時は成功するかも知れん。けれども、大きくなったり、成功する事が、今度はおかげ落としの基になるのです。
金光様の信心は、それこそ日勝り、月勝り、代勝り、親の代より子の代、子の代より孫の代と大きくなって行けれる道なのです。為には、まず基礎であるところの信心を本気で身に着けさせて頂く事にです、一心と定めなければいけんのです。
一心と定めるとは、そこに一心を定めねばいけんのです。 どうぞ